高1の冬だったと思う。僕は生まれて初めてライブハウスで演奏した。 と、いってもオリジナルではなくコピーバンドだった。 中学のときの友達が僕の読書集会でのピアノ演奏に目をつけて、 自分のバンドを手伝ってくれと申し出てきたのだった。 しかし、そのバンドがけっこう問題だった。 あまりのまとまりのなさと、ただ”成りきって”いるボーカルなどの特徴を誇る、 中学の文化祭では最も客を引かせたバンドだった。 多少のメンバーチェンジはしていたが、 やっぱり高校に入ってもバンドのカラーはいっしょだった。 僕はキーボードとして迎えられたのだが、理由としては、 ”今のままでは、あまりにも心許ないから”という理由だった。 (と、言っても僕がすごく上手かったわけでは無かったのだが。)生まれて初めてリハーサルスタジオに恐る恐る入った。 キーボードの音色の変え方もよく分からないまま、 大音量の中で、”耳痛いぞ!”と思いながらその空間を耐え忍んだ。 普段はそんなにおつき合いのないワル達 (田舎だったせいかバンドやっているのはワルが多かった)と、 夜を分かちあったのが、なんとなく新鮮だった。 練習後にドトールコーヒーでダベってみたりした。 もちろん僕以外は喫煙していた。僕はマジメだったのと、 喘息持ちで煙草が体質に合わなかったので、吸わなかった。 ”おめーは吸わない方がいいぞ、俺最近、体育の時間息切れするようになったしなあ。” と、周りも僕には勧めなかった。 もちろんバンドだったのでナンパもした。 (田舎者の発想だなあ・・。) 繁華街のゲーセンやらボーリング場やらの入っているビルで、 うろついているかわいい女の子にチケット片手に声をかけてみたりしていた。
”俺達さあ、バンドやってんだけどさあ、ライブ来ない〜?”
そういう時は、僕は遠くから見ていることだけに徹していた。そんなふうにしているうちにすぐにライブ当日になった。 演奏の完成度は、”奇跡的にときどき通して最後まで演奏ができる”という程度だった。 僕らが出演したのはライブハウスと言っても、 とても変な店だった。単なる貸しホールのようなところが、 ブームに便乗してライブハウスになっただけのようなところだった。 入場するとこんな紙切れが配られた。
”下の階のお店の迷惑になるので足を踏みならしたり、 ジャンプしたりしないで下さい”
・・・そんなライブハウスってありか? 確かに下の階にはおいしいトンコツラーメンのお店があったので、 仕方ないとは思うがすごい話だ。安くてまずくて量の多いスパゲッティ屋で昼食を食べて、 いよいよ本番となった。 客はなぜかたくさん入っていた。 ”あいつライブハウスに出るんだって!”なんてことになれば、 仲間内ではヒーローだった。当然みんな来てくれた。 ただ、僕は正直言ってあまりこのバンドを見られたくないという気持ちがあったので、 誰にも声はかけなかった。 演奏開始した。僕らはボウイとジュンスカとアルフィーのコピーをやった。 ボウイのコピーはやってない方が異常だというくらいみんなやっていた。 中学の文化祭では、どのバンドがボウイをやるかでひと騒動起こったほどだった。 当然人気絶頂だったボウイのコピーをやれば周りからキャーキャー言われるのはみんな知っていた。 だからこそ”**中学にボウイのコピーバンドは2ついらない!”などという抗争も勃発していた。 いたいけな中2の奴らが果敢にもボウイのコピーで文化祭に出演しようとしたところ、 中3の番長グループに目をつけられ、 泣く泣く”アジャリ”(当時そういうバンドがあったのです。知ってる?) のコピーをするはめになったという事件が最も有名だった。
そんな人気絶頂のボウイのコピーをやった僕らだったが、 うけたかのか?というとやっぱりイマイチだった。 いかんせんボーカルが下手すぎた。 当時もう僕は自宅ではうたっていたので、 ”だったら俺がうたうよ!”とでも言えばよかったのかもしれないが、 なぜか当時僕らの中には”ボーカルは見た目が一番!”という暗黙のルールがあり、 僕には立候補の資格が与えられていなかった。 しかたなしに”ビヨー”とキーボードを弾いていた。 そのボーカルの音痴対策に僕らは、 ”全体にチューニングを半音下げてうたいやすくする”という秘策を実行していたが、 今思うと彼はそもそもそういう問題でなく、”ただただ下手だった”のであって、 その秘策も”焼け石に水”どころか、 彼の絶対音感(?)をますます狂わせたという点で究極の愚策だったようだ。
ライブデビューをするものは大きな誤解を持ちやすい。
”俺達が演奏始めれば、みんなキャーキャー言って、 そっりゃーもー俺達ゃヒーローだぜ!よろしく!”
というふうに自分がYAZAWAかなんかとイコールになってしまうのだ。 でも現実は厳しい。
”あ、昨日どうだったかな〜?”
”うん。よかった。”(←全く心がこもっていない声で)
というあたりが平均的なところだろう。 で、僕らのバンドも別に盛り上がることもなく演奏を終了し、 なんだかみんなイライラしながら家路についた。 僕もなんか物足りなかった。自分が一番楽しかったのは、 ライブ後に控え室にあったピアノで尾崎豊の卒業を弾き語っていたら、 たまたま来てくれていた同じ中学の奴に、
”お前がボーカルやりゃあ良かったんじゃない?”
と、言われたことと、対バンを観に来ていた同じ高校の奴に見つかって、 ”お前すげえなライブハウスに出てるなんて!”と驚かれたことだった。 心の中で”もーバンドなんかやらん!”と誓っていた。次の日高校に言ったら、僕はうわさの人になっていた。 ”あいつライブハウスでやってんだって!”という情報がうまい具合に広がっていた。 僕は男子の中では、ちょっとだけランクをあげていた。