〜整理整頓大作戦〜

 部屋の大掃除をした。気がつけば、この部屋に暮らしてから、もう8年目になる。あまり整理整頓は好きな方ではないので、その手のことは、先へ先へと延ばしてきたが、いくらなんでもここらで限界だった。もう、去年あたりからはバイトが忙しかったせいで、部屋の整理なんかとてもできる状態ではなかった。おかげで、地層は次々と積み重なり、ひとつの本を探すのにも、大”発掘”作業が必要なところまで追い詰められていた。バイトを減らし、家にいる時間が増えると、自分の部屋の使い勝手の悪さがより強く感じられるようになった。そしてある日ついに、あまりの不快感に耐えかねて、突発的に”整理整頓大作戦”が始まった。

 まず、もう収納の限界点に達していた押し入れに空間を作るところから始めた。学生時代からためこんだ様々な本、段ボール3箱分を処分することにした。もったいない気もしたが、3年も4年もずっと押し入れに詰め込まれて顔も見えなくなっていた本はもう持っていないのと同じことだった。改めて、”あー、こんな本も持ってたんだなあー。”なんてことを思ったりしている時点でもう”捨て”である。(ちなみに古本屋に持っていったら状態が悪いので・・と言われ引き取ってもらえなかった。)”読みたくなったらまた買えばいい!”ということを自分に言い聞かせながら押し入れに余剰スペースを作ることに成功した。さて、そうしたら今度は部屋本体に立ち向かう番だ。とにかく、ここまで来たらテーマは”捨て”だ。部屋の中のありとあらゆる物体をひっくり返し、”取っておくもの”と”捨てるもの”に分けた。しかしながら約7年間ためこんだ物体達を分別してゆく作業は大変なんてものではない。大作戦1日目はほぼ、”ひっくり返す”だけで終わってしまい、寝る場所も容易に作れないまま終了した。

 次の日は”新しい小型の音源を入手し、iMacと接続する”という新システム構築にむけて、これまで使っていた(というか、最後の方は部屋があまりに散らかりすぎてたどりつけなくなってしまっていたので、使えなくなっていた)キーボードと音源を売った。(古いので大した金額にはならなかったが。)しかしながらずっと置きっぱなしになっていたものを動かしたときのホコリのパワーはすごかった。何年も熟成されていたせいか、もう、涙と咳が出てきて出てきて死ぬ思いだった。そして、ようやく3日目にして、”収納→整頓”に移ることができた。ここまでで、70リットルのゴミ袋7袋、段ボールで3箱ほどのゴミが出た。

 それから、今度は数日をおいて、”台所””風呂場””トイレ”の清掃にも着手した。実はいつの頃からか、部屋に置き切れないモノ達(粗大ゴミ系のもの)は台所に置かれるようになっていたため、たかが台所といっても、相当の覚悟が必要とされた。まず、壊れたテレビやビデオを”分解”した。(粗大ゴミで出すと金を取られるから。)ドライバーで分解し、それでも外れない部品は軽くライターであぶって変型させてキックしてぶっ壊した。”捨て”が終わったら、マジックリンやハイターで床磨きをした。(これらも2日間ほどかかった。)この大作戦中に大家さんから突然電話がきた。”引っ越すの?”と言われた。本当に普通の人が見たら、そう思うくらいの規模の大作戦だった。

 大作戦終了後、7月2日のライブにむけて、バンドのメンバーがうちに来た。”す、すごい・・・”と驚いてくれた。”そこら辺の畳が地表にでているのを初めて見た気がする。”と有り難いコメントをくれた。不思議なもので、部屋がすっきりしたら、心も晴れ晴れとした。今まで視界を遮っていたものが無くなってくれたようだ。そうしたら、新しい曲も生まれてきた。”なんだ、掃除って気持ちいいんだ!”と生まれて初めて分かった気がした。

 さて、そんな体験をして気がついたのだが、モノというのは長期間部屋に置きっ放しにしておくと、いつの間にやら風景と同化してしまって、あって当たり前というか、”そこにある”ということさえ感じさせなくなってしまうようだ。たとえそれが不要なモノで、単に場所取りの機能しか果たしていないとしても。でも、これは、モノに限ったことではなく日々の習慣や行動も同じことだという気もする。あなたの職場でも、誰もその書類を書く理由も分からないし、必要性も感じてないのに、なーんとなく月末が来て提出期限に間に合わせようとアクセクしてしまう、なんてことありませんか?・・・うーん、そうだな、僕もよく考えもせずに、”それをやるのは当たり前のことだろ!”という言葉だけを吐く思考停止人間にならないように、気をつけねば。

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